松平元康独立、今川家攻撃 背後に織田信長の存在が

松平元康は今川の家督を継いだ今川氏真(義元の子)に弔い合戦をするように進言するが、受け入れられなかった。これを機に元康は今川からの独立を画策し始め、まず敵であった織田信長と同盟を結んだ(清須同盟)。そして今川方の武将鵜殿長照を攻撃してこれを殺害した。これは今川氏への敵対と、今川氏からの独立を示すための軍事行動を起こす。ドラマと異なり一応は報復戦を今川氏真に進言したが、氏真の軟弱さを見て、独立、続き領地切り取りを始める

翌永禄4年(1561)には、松平元康に織田信長との和睦の話しが持ち込まれる。生母・於大の方の兄・水野信元に進言された信長が、元康の家臣・石川数正のもとに和睦を申し入れてきた。家康は家臣らと相談の上、氏真と断って信長と結ぶことを決意した。しかし、元康にとって、これは一つの勝負だった。織田氏松平氏は遺恨浅からぬ間柄であることに加え、家康のも含めて重臣たちの多くが妻子を駿府に人質に取られていたからだ。事実、今川を離れた形原松平家広、西郷正勝、菅沼定勝、菅沼定盈といった田峯・長篠・野田方面の諸将の妻子は、氏真により串刺しの刑に処されていた。  しかし元康は、氏真と断交すると次々と今川方の諸城を攻める。