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ため池

 ため池を干したら現れた底の分だけ田圃が増える、とため池の堤防を切ってしまったら、田圃は確かに増えるでしょうが、そことその周囲の古い田圃に、どこから水が供給されるのでしょう?

【ただいま読書中】『ダイヤモンドダスト南木佳士 著、 文藝春秋、1989年(95年15刷)、1165円(税別)

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目次:「冬への順応」「長い影」「ワカサギを釣る」「ダイヤモンドダスト

 予備校の時には勉強に集中せず、医者になってからは論文を書かないことと釣り(鮎やワカサギ)に熱中し、タイ・カンボジア国境付近の難民収容所での医療活動に3箇月間ふらりと出かけてしまう若い医者が登場します。なんだか「今」「ここ」に集中しないことに熱中しているなあ、といった印象です。いや、難民医療をしっかりやりたいなら、国境なき医師団にでも参加してもっと長期間腰を据えてやるでしょう。「難民」や「へき地の診療所」という「場」はあるのですが、この医者は「心ここにあらず」といった態度でふわふわと仕事を(というか、釣りを)し続けています。

 そこで描かれるのは、「辛い現実」です。癌の末期患者(それもかつて自分が恋心を抱いた女性)、難民収容所の悲惨な生活……そういったものをストレートに受け止めていたら心が壊れるから、どこかに「遅延回路」をしかけて現実を認識しているのでしょうが、その「遅延回路」が「日常」にまで浸食してきたら「心ここにあらず」に見えるようになるのかもしれません。するとこの医者は「観察者」それも「参与観察者」である、とも言えそうです。

 本当は「医者が向き合っている悲惨な現実とその医者との関係性」に注目するのがこういった作品を読む「正しい態度」なのかもしれませんが、あえて「この医者の立場」に自分を置いて読んでみました。著者は「医者の視点」で物語を語っていますから、その「視点」そのものに注目しよう、というわけです。

 しかし「ダイヤモンドダスト」では、「視点」は医者ではなくなります。おや、せっかく読者としての「姿勢」を作ったのに、と思いますが、「病院」を「医者でも患者でもない視点」から眺めるのもなかなか面白いものです。特にそこに「医者の視線」が隠し味で入っているわけですから。ただ、この作品が芥川賞を受賞、と聞くと、私は軽く首を傾げます。“底に潜んだ迫力”では「冬への順応」の方があるような気がするものですから。まあ、私の文学作品への感受性は、たぶん世間一般とは少しずれているから、私が首を傾げることになにも意味はないでしょうが。